ジョーカーに魅了される理由
【記事内には広告が含まれます】【ネタバレあり】
みなさん、こんにちは
当ブログ運営者の優勝な人生です。
本日は私の大好きな映画ジョーカーシリーズ2作品目
“JOKER folio a deux“
を視聴してきたのでそれについて書いていこうと思います。
もともとDCやマーベルといったアメコミの世界観が大好きで
最初の作品もそれをきっかけに映画館へ足を運びました
内容は決してハッピーなものでは無いし
残虐なシーンも多い
そんな映画を観たのは初めてでした
しかし私は見終わった後、その余韻からしばらく抜け出せませんでした。
でもその頃は何に魅了されているか自分でもよくわかっていなかったのです。
私は好きなものは何度でも摂取したいと思う人間なので
その後ジョーカーは映画館に5回、その後もすぐにDVDを予約して何度も見ました
“現在はNetflixで1作品目を視聴することができます“
ジョーカーの行動は一般的には非常に危険で許されない行為であり
もちろん私もエンタメとして見ているつもりでした
でも今回の続編を見て気づいたことがあったんです
私はジョーカーに憧れの眼差しを向けていたということです
ビジュアルがかっこいいというのもありますが
ジョーカーの生き様に特に
社会や人間の不条理さや矛盾
それを解放して凛としているジョーカーがかっこよく思えたのです。
1作品目の時にジョーカーが言っていた言葉がとても刺さったのを覚えています
“善悪なんてその人の主観でしかない“
ジョーカー自体をどのように見るかもその人の主観でしかない
彼は私たちが普段抑え込んでいる恐怖や不安を体現しているように思います
映像作品ながらも
それをやってのけるジョーカーにその想いを重ねて観ていたのかもしれない
なので、今回最後にアーサーがジョーカーにはなれなかったと
みんなの期待する人物にはなれなかったと口にした時
やっぱりアーサーは本当は心の優しい人だったので気づけて良かったと思う反面
もうあの、何にも屈しないかっこいいジョーカーを見れないのかと思うと悲しい気持ちになったのも正直な気持ちでした
それは裁判所でその発言を聞き失望して立ち去ったハーレーやジョーカー信者たちのように
でも結局アーサーの本質はずっといい人だったなと思うんです
どうしてもジョーカーになる前の彼には同情の余地が見え隠れしていました
そして彼は加害を加えるものに無差別性はなかったんです
自分に優しくしてくれた人には絶対に手を出すことは無かった
優しすぎるが故に、虐げられ、見向きもされず
たくさん心を蔑ろにされて
あんな事件を起こしてしまった。
いわばアーサーも被害者だったなとずっと思うのです。
ジョーカーは単なる悪者ではなく、とても哲学的で、誰にでもなりうる可能性があることを示唆しているなと感じました。
ストーリーはもちろん
音楽の使い方や、映像美、カメラワークまで全てが本当に好きでした。
ジョーカーという作品を見られる時代に生きていることを嬉しく思います^^
監督、演者の方々、我々には想像もできない苦労があったと思うのですが
素敵な作品を世に届けてくださって本当にありがとうございます
日本より愛を込めて